このブログは、貴方にお勧めしているわけでは御座いません。世の中には、こういう療法もある、と云うことで無断転載させていただいております。
もしも実践される場合は、自己責任・自己管理のもとで、お願い申し上げます。
また、左の書庫欄より
「飲 尿 療 法」(無断転載者の体験記録)
「ガ ン と 闘 う 医 師 の ゲ ル ソ ン 療 法」(星野仁彦医師による体験記)
「尿療法」(中野良一医師による著作)
を併読いただければ、より立体的に御理解いただけると存じます(青文字クリックで全文が通読できます)。
Amazon.co.jp: 奇跡が起こる尿療法―勇気さえあれば、治らなかった病気が治る ( ビタミン文庫): 中尾 良一: 本.
P.44 *高熱の兵士が尿を飲んだらすぐに解熱
戦況もあまり芳しくなった昭和18年(1933年)9月私たち軍医予備員にも予(かね)て覚悟をしていた通り、一枚の召集令状が届きました。そして京都伏見深草の連隊に入隊。私(中尾良一)が医師になってからちょうど10年目のことでした。京都で編成されたのは、『第26野戦防疫給水部』という名称の部隊でした。その名が示す通り、防疫や無菌水を供給する任務でしたが、それは「あくまでも当初の任務」でした。実際に戦地(東南アジア)では、いろいろな部隊の医療業務から戦闘部隊の救援に至るまでの「ヨロズ屋」的な任務でした。
とにかく内地で想像をしていたモノとは、まるで違っていました。なにはともあれ、3千トンぐらいの貨物船に3千人もの兵隊さんを積んでバンコクへの航海はそれだけでも難行苦行でした。しかも日夜の潜水艦に脅かされ、9隻の船団は途中で3隻が爆沈し、目的地に着いたのは6隻だけという有様でした。1万人は水没死しましたが、平和時の事故ならば大変な騒ぎになったろうと思われます。それも「1枚の戦死」の広報で万事終わりです。
私(中尾)はバンコクからビルマ(2014年現在のミャンマー)のマンダレー、そして翌年の昭和19年(1944年)にはインパール作戦に参加しましたが、初めのうちはいくらかの薬剤もありましたが敗戦・敗退の頃になりますと、途中補給もない戦地のこと、薬剤などは何もない、食糧もない―そんな状況で、何とか軍医としての任務を果たさなければならなかったのです。
インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、 1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルート の遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作...
戦死広報で見れば「何々野戦病院で戦病死」と記されてはいても、実情はジャングルの中で屋根も何もない雨ざらしでということも多いのです。こんな情景は家族や近親者には、とても話せないモノでした。それでも傷病兵にとっては「軍医は神様のようなもの」です。与える薬剤はなくても、言葉で激励するだけで元気づけることができました。
人間の精神的な力の偉大さをまざまざと感じる情景でした。このような状況下にあって、いよいよ退却となれば、歩くのが不可能なものは自爆以外に方法がなかったのは何故でしょうか?
それは「生きて捕虜となることを最大の恥」と教育したから、です。むしろ「最前線で捕虜になるような戦線の方が、後方で退却する者より、はるかに勇者」と言えるのですが、それを『恥』と教育したために、あたら尊い命を失い司令官は、とっくの昔に後方へ退却という不合理が大手を振って、まかり通っていたのでした。
それはさて置き―軍医たるもの、自分の所属する部隊だけを診るとは限りません。不特定多数の傷病兵を扱い、あるいは慰め、あるいは気合を入れて元気づけ、あるいはジャングルの野草を集めては多少なりとも糧(かて)の足しにしました。
他の部隊の傷病兵が集められた集合所などを見回りに朝・夕行くたびに、朝元気であった者が夕べには黄泉(よみ)の国の客となる悲惨さでした。
こんな時に、ふと思い出したのが尿の淋病に対する効果でした。「よし、この際だ。細菌に感染したと思われる傷病兵には、尿を飲ませる以外に方法はない」と考え、熱病の兵士に飲ませることにしました。薬も何もなく、自然に治るのを待つばかりという状況で、「とにかく尿を飲めば、どんな病気にも効果がある」という言い伝えを古老から聞いていたから、です。
また、「細菌による病気は、病気に対する抵抗力を持つ免疫抗体が尿の成分に含まれているために効く」ということも考えられるので、飲ませることにしたのです。
そこは野戦であり「なにも頼るモノがない苦しさと、『生きたい』という願望のため」でしょう。兵士は何物をも恐れずに、奨めた尿療法を、すぐに実行に移したのです。
そうすると今まで高熱で苦しんでいた兵士が尿を飲んで2,3日が経つと熱が下がり、目に見えて元気になって行ったのでした。自然に治る時期が来ていたのかもしれません。また尿が効いていたのか―それは、解りません。戦地のことです。詳細な記録も取れなかったのですが、症状の軽快したことは事実確認ができたのです。
しかし「兵士に尿を飲ませる実験でもした」ように誤解されることも考え、それは軍事機密として報告もしませんでした。ところが後で、この経験がタイのチェンマイ地区部隊の兵士に蔓延していた性病退治に役立ったのでした。
P.47 *尿療法が性病退治に大活躍
私(中尾)は昭和12年(1937)・19年(1944)と時と場所は異なりますが、細菌による病気と考えられるものに尿が著効を示した事実を確認しました。しかし用いたものが尿であり、まだ一般には汚物視されており実験的な程度で対象も限られていたため、公表もできませんでした。そしてインパール作戦も本体の撤退で、私達はビルマを退去しタイ国領内へ入り、サルウィン河を渡ってチェンマイに到着しました。一応はそこに落ち着いて、患者輸送の任務に就いたのです。この地区は割合に美人が多いので有名です。前から駐留している部隊を訪ねると、この中に性病患者が多数いるのを発見したのです。
当時私(中野)はイギリスとインドの連合軍が残した薬物の中から、プロントヂールと言う薬剤を治療薬として持参していました。現地人などにも性病患者が多かったので性病治療のために、この薬の注射と同時に、自らの尿をコップ1杯ずつ飲ませたのです。つまり注射と尿療法の併用ですが注射は量が足りませんでしたから、1人1~2ミリリットルくらいしか使えす、効果も期待できませんでした。多少なりとも効果を期待するためには10~20ミリリットルを必要としますが、それではすぐに種切れになってしまうので、効果はまったく尿の力に頼ったのです。
そして、これが予測通り抜群の効果を見せて、現地人に日本の軍医の信頼度を高める結果になりました。もちろん駐留の兵士たちも、その御蔭を被ったことは言うまでもありません。