これは、あなたに勧めているわけでは御座いません。世の中には、「こういう考え方があり、それを実践している方が居る」と、云うことです。また、現在ではいろいろな研究により、それぞれの栄養素の効用や弊害(へいがい=副作用)についての情報が公開されております。
実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
下記に関連書籍(青文字クリックで全文が通読できます)を、無断転載させていただきましたので、よろしければ御参考までに、お読みください。
(故マックス・ゲルソン 著)
ゲ ル ソ ン 療 法 治 癒 し た 5 0 人
(故マックス・ゲルソン 著)
(マックス・ゲルソン博士の3女が記した本)
(ゲルソン博士による、ゲルソン療法により完治した患者へのインタ ヴュー)
(5生存率0%の大腸ガンから肝臓へと転移した医師、星野仁彦:著)
(日本人だけなぜ、がんで命を落とす人が増え続けるのか―消化器外科の 権威がすすめる驚異の栄養・代謝療法)
(済陽高穂 著)
(日本におけるゲルソン療法実践医師による対談・比較集)
(お茶の水クリニックで食事指導を続ける医師が書いた本)
無断転載者注:以下の主張は、1998年における森下敬一医師の意見であり、
無断転載者である“私”とは無関係です。
P.35 絨毛(じゅうもう)上皮細胞が赤血球母細胞へ発展
模式図(35ページは、環境的・技術的に無断転載不可能なため、割愛させていただきました)は私たち(森下派の自然療養家)の新しい血液の理論をまとめたものである。よく知られているように、腸の粘膜には内側に向かって、いっぱいケバが生えている。ちょうど植物の毛根にゐ相当するものだ。植物の根には、たくさんのひげ根が生えているけれどもそれとまったく同じように腸の管の内側には、その中心に向かって消化された物や栄養分が充分に取り入れられるように、ケバガ一杯生えている。その毛羽は「絨毛(じゅうもう)」と呼ばれる。このような状態の腸管内を消化された食物が移動して行くわけで、これら(消化された食物)は少しずつ絨毛の中に取り込まれていく。
腸絨毛(ちょうじゅうもう、英Intestinal villus)とは、小腸内壁の輪状ひだに存在する突起 のこと。 俗に柔毛(じゅうもう)、柔突起(じゅうとっき)とも呼ばれるが、これらは微絨毛を 指す場合もある。中学校の教科書などでは、「柔毛...
腸の絨毛は積極的に、ちょうどアメーバのように消化された食物を、自らの組織の中に取り込むのだ、と考えてよい。取り込まれてしまったその食物は、絨毛(粘膜)組織の中で「同化作用」を受ける。そして腸絨毛(ちょうじゅうもう。粘膜:ねんまく)固有の細胞に変って行く。さらに、この腸粘膜固有の(絨毛上皮)細胞は、絨毛内腔(じゅうもうないこう)に放出されたのち、赤血球母細胞へと発展し、その細胞体内に数十個の赤血球を孕(はら=その中に含み持つ)むに至る。このような過程で、消化された食物から赤血球へ、と発展して行くのである。この腸粘膜でつくられた赤血球は、もちろん絨毛(じゅうもう)内腔中軸(ないくうちゅうじく)を走る毛細血管(もうさいかん)の中に入り込み、そうして体内を循環するということになる。
ところで、この赤血球は何をしているのであろうか?今までの、というよりは(1998年)現在の生理学的な考え方によると、赤血球の機能はガス運搬という点に求められている。酸素を体細胞に与え、そこから炭酸ガスを持ち帰る…というのが、常識的な赤血球観である。
赤血球(せっけっきゅう、英: Red blood cell あるいは Erythrocyte)は血液細胞の1種で あり、酸素を運ぶ役割を持つ。 本項目では特にことわりのない限り、ヒトの赤血球について解説する。ヒト以外の赤血球については後述...
しかし、実際は、そんな単純なものではない。赤血球の本当の―(1998年)現在、ほとんど気づかれていない―最も大事な役割は、骨の中の脂肪組織であるとか、あるいは皮下脂肪組織であるとか筋肉、肝臓であるとか、その他脾臓(ひぞう)・腎臓および脳の細胞など、すべての固定組織細胞に変化発展して行く、ということである。つまり赤血球は、我々の体をこしらえている組織細胞の紛(まぎ)れもなき直接的素材である、ということだけだ。
「赤血球が体の細胞をこしらえている」という考え方は、「食物が赤血球に変わる」ということともに、かつて生命科学の世界において、誰も思いも及ばなかった発想である。それだけに(1998年現在では)、この発想には根強い抵抗があり、まだ学会の容認するところとはなっていない。しかし、その真偽は(1998年の)現時点における学会の移行によって決められるべきものはなく、これからの新しい生命科学の歴史が厳正に審判を下してくれるもの、と期待されるのである。
食物(有機物)→赤血球(原始的生命)→体細胞(高次元生命)
それはともかく、消化された食物が―食物は一応、有機物と理解してよいわけだが―赤血球という非常に単純で幼稚な生命体に作り替(つくりか)えられ、次いで、それがより高次元の生命体、すなわち体細胞に変って行く。したがって、我々の体内においては、食物(有機物)から赤血球(原始的生命)そして体細胞(高次元の生命)へ、という生命発展の過程が大急ぎで進行して行くことになるのである。
かつて、この地球上においては無機物質から有機物質へ、有機物質からタンパク質へ、そしてタンパク質がいろいろと組み合わされて、非常に幼稚な生命体の登場を見るに至(いた)った。引き続いて、このアメーバ―のような低い次元の生命体が漸進的(ぜんしんてき=順を追ってユックリ、徐々に)な発展を遂(と)げ、ついに人間という段階に到達した。
それとまったく同じような変化が、我々の体の中で、非常に短い時間の間に、驚くほど速やかに進行しているのである。すなわち消化という名の「物質発展」と「細胞新生」の過程、それに低次元生命(赤血球)から高次元生命(体細胞)への融合化成(ゆうごうかせい)―すなわち分化が見出されるのである。これは実をいうと、大変な出来事である。この地球上では数十億年もかけて引き起こされた現象が、我々の体内では、わずか1日か2日の間で―その数十億年を要した細胞への発展の歴史が―くり返されるということになる。そういう意味では、我々の体というものは、まったく霊妙不可思議な存在であると言えよう。
それはともかく、腹具合を悪くしたり、下痢(げり)をしたり、絶食をしたりして、腸への造血が行われなくなると、今度は逆に体内の各組織細胞から、もとの赤血球に逆戻りをし始める。たとえば、下痢が何日か続いて体重が減り、痩せて来るというのは、それは皮下脂肪が赤血球に逆戻りして行くからである。痩せるという現象は生化学的には皮下脂肪の燃焼と理解されているが、これを(森下派の自然療養家の)新しい生理学的な立場から言うと、皮下脂肪の赤血球への逆戻り現象なのである。
なぜ赤血球への逆戻りが行わるのであろうか?
そもそも我々の血液中にある赤血球は、ある一定値以下に下げるわけには行かない事情がある。体内の生理機能を円滑ならしめるためには、常に血液中の赤血球数を一定のレベルに保っていなければならないのである。我々の体内の赤血球の数は、1ミリ立方当たり500万個前後であるが、この500万の赤血球は、滅多(めった)な事では300万以下には下がらない。それは脳や腎臓などさかんに酸素を要求する臓器組織に酸素を運搬しなければならないからでもある。300万以下に下がってしまうと、酸素の供給が充分ではなくなるので、それらの大事な働きもストップしてしまうのだ。
こういう事情で、赤血球を下げるわけには行かないのである。当然、絶食や胃腸の障害によって赤血球の生産は極度に減弱する。腸での生理的な赤血球の生産がストップすると、今度は体の組織細胞が応急的に赤血球の生産を始める。まず最初に赤血球に戻るのが皮下脂肪で、そのために痩せるという現象が引き起こされるのである。
ウサギの赤血球数は550~600万ばかりである。そして、ほぼ2週間、餌(えさ)を与えないと、このウサギは餓死(がし)してしまう。だが、死ぬ直前まで300万の数を容易(ようい=かんたん)に割らない。300万以下になった時には、もう、それは死を意味するわけだ。餌を与えていないから、生理的な造血機能はもちろん営(いとな)まれていないのに、300万という赤血球数がコンスタント(継続的)に保たれているというのは、それは体内の各組織が赤血球に逆戻りしているからである。それゆえ餓死したウサギを切り開き、体内のいろいろな臓器を組織学的に検討してみと、ほとんど大部分の体細胞はガラガラになってしまっている。
たとえば肝臓の細胞を見ても、その外形(細胞膜)が残されているだけで、中身の細胞質はまったく喪失(そうしつ=うしなう)してしまっている。実際に餓死(がし)したウサギの各臓器組織の細胞は、ひどい状態である。肝臓も脾臓(ひぞう)も、それから最後には脳の細胞までも、隙間(すきま)だらけになってしまう。もちろん、それは細胞質が赤血球に逆戻りした結果だ。体細胞を赤血球に逆戻りせしめることによって、より大事な組織器官に、最後まで流血中の赤血球を接触させようとするわけである。
赤血球と我々の体の細胞―すなわち各固定組織細胞とは、(1998年における)現代医学ではハッキリと区別されてはいるけれども、決して、そんなことはない。赤血球と体細胞との相互関係は有機的で、絶えず可逆的な変化を反復している。調子の良い時には赤血球は体細胞に変り、また調子が悪くなると、今度は体細胞が赤血球に逆戻りするというように、両者の間においては常に可逆的な変化が行われている。細胞は最初から最後まで、常に、その細胞でしかない、という固定観念は破棄されなければならないのである。