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 新しい血液生理学の概要(がいよう=おおまかな説明)

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  これは、あなたに勧めているわけでは御座いません。世の中には、「こういう考え方があり、それを実践している方が居る」と、云うことです。また、現在ではいろいろな研究により、それぞれの栄養素の効用や弊害(へいがい=副作用)についての情報が公開されております。
 実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
 下記に関連書籍青文字クリックで全文が通読できますを、無断転載させていただきましたので、よろしければ御参考までに、お読みください。
 
 (故マックス・ゲルソン 著)
 (故マックス・ゲルソン 著)
 (マックス・ゲルソン博士の3女が記した本)
 (ゲルソン博士による、ゲルソン療法により完治した患者へのインタ ヴュー
(5生存率0%の大腸ンから肝へと転移した医師、星野仁彦:著)
 (日本人だけなぜ、がんで命を落とす人が増え続けるのか―化器科の 権威がすすめる驚異の栄養・代謝療法
  (済陽高穂 
 (日本におけるゲルソン療法実践医師による対談・比較集)
 (お茶の水クリニックで食事指導を続ける医師が書いた本)
 
 
 
無断転載者注:私は雨が降ろうと槍が降ろうが、骨髄&腸のどちらかがダメに
        なったら、人間(生物)は生存しないと頑なに信じちゃってるンだ
        い
 
P.31 新しい血液生理学の概要(がいよう=おおまかな説明)
 
「食は血になり、肉となる」
 
 この地球上に今、動物と植物とに大別される生物が住んでいる。植物という生き物は土の中に根を下し、そして栄養分をとっている。それに対して動物は、自分の体を動かしまわらなければならないから、植物のように大地に根を下ろしてしまうわけにはいかない。ジッと体を固定したまま生活する事のできる植物に対して、動物は食物を求めるために、自分の体を動かさねばならなうのである。いわゆる栄養分を取り入れるための植物の根に相当する器官が当然、動物の体内にもあってしかるべきだ。我々の腸が、これに相当する。腸という(植物の)根を体内に納めて、運動しやすくなった生物、それが動物体である。
 植物体では、土の中の栄養分が取り込まれる。しかし動物の場合には、土の代わりに食べ物を口から取り入れる。植物の場合―栄養の宝庫ともいうべき―大地に相当するもの、それが我々の食物なのである。我々の食物というものも、結局は大地の成分を採(と)ってでき上がったものだ。いわば土のエッセンス(養分、成分)に他ならない。動物は、その土のエッセンスを口から取り入れて、腹の中に納めてしまうのである。このように考えてみると、植物の体と動物の体との間には本質的な差は見られない。
 (1998年)現在、この腸の働きについての生理学的な見解として、ただ食物を分解して吸収するだけだという考え方が一般的であるけれでも、実際は、そんなものではない。腸の粘膜には、もっともっとダイナミック(大がかり)な働きが存在しているのである。
腸
(ちょう、intestines)は食物が胃で溶かされた後、その中の栄養や水分を吸収する 器官。末端は肛門であり、消化された食物は便となり、排便により体外へと排出される。 の構造は動物によって異なり、摂取する食物による違いが大きい。
ja.wikipedia.org/wiki/ - キャッシュ - 53k - このサイト内で検索
 
 
 腸の粘膜組織というものは、ひとことでいえば、それは巨大なアメーバー様組織であるとみなすこともできよう。口から取り入れられた食物は、ある程度(ていど)細かく噛み砕(かみくだ)かれ、そして同時に消化液(だえき)の作用を受けることは周知のとおりであるが、この消化された食塊(しょっかい)は、少しずつ腸の粘膜の中に取り込まれて行くのである。私たちが口から取り入れた食物を、腸粘膜は再び自分の組織の中に取り込んで行く、ということになる。それは(1998年)現代の生理学が教えるような、物理学的な吸収では決してないのである。それは、アメーバ―の食作用に似た働き、と理解してよいであろう。そして、この腸粘膜の機能的な過程において、いわゆる「腸造血」という生理的な現象が営(いとな)まれる。
消化とは、食物を食べたとき、その中に含まれている種々の栄養(えいよう)を体内に吸収できるものまで分解することです。そして、いらないもの ...食物を細かく砕(くだ)き、これに消化液を混ぜ、次第に下方の消化管に移動(いどう)させることです。 左の動画は、 ...
www.med.miyazaki-u.ac.jp/community.../syoukaki1.htm - キャッシュ - 32k - このサイト内で検索
 
 
 要するに、腸の粘膜は消化された食物を積極的に自分の組織の中に取り込み、この取り込まれた食物は―アメーバ―である腸の粘膜の中で―だんだん同化されて行って、遂(つい)には赤血球に変って行くもの、と説明すればわかりやすいであろう。腸造血の結果としてつくられた、その赤血球のもとは突き詰めて行くと結局は食物、である。食物を材料として腸の粘膜において、新しき生命である赤血球は生産されるのである。まさしく「食は血になる」のだ。
 それから、もう1つ大事な点について、触れておこう。腸で造られた赤血球は、我々の体内を隅(すみ)から隅まで循環し、そしてすべての組織際に変化して行っている。肝臓の細胞も、筋肉の細胞も、そして脳の細胞までも実は、この赤血球からつくられているのである。(1998年における)現代医学・生物学の教えるところによれば、細胞は分裂・増殖によって増えて行く。たとえば、1つの肝臓の細胞が2つに分(わ)かれ、2つが4つに分かれるというようにして肝細胞は増えて行くというのが定説であり、鉄則である。
 けれども生体外(もしくはin vitoro:イン・ヴィトロ=試験管内)での不自然な条件下ではいざ知らず、生体内では決して、そんなことはない。生理学的には、いくつかの赤血球が寄り集まって1つの肝臓の細胞になったり、また1つの脳の細胞に変って行ったりしている。まさしく、「血は肉になる」のである。
 このように、赤血球の材料は食物である。また赤血球は、体内のすべての組織細胞に変って行くのであるから、我々の体質や思考様式というものは、食物の如何(いか)によって左右される。ということになる。「食は命なり」である。思い切り、この話を煮詰(につ)めて行くと、我々の体というものは食物の"変り種(だね)"だという極論さえできるわけである。
 「我々の体質は、食物によって時々刻々変貌を遂げている」という考え方は、大変に唯物論的な響きを持っているけれども、そういう理屈も成立するぐらい、食物というものの影響力は大きい。食物は我々の体を機関車と見做した場合の燃料、すなわち石炭やガソリンに相当するものではなく、それ以上の生理学的意義を持っている。石炭が機関車をこしらえることは絶対にない。が、食物は我々の体を築き上げて行く。そういう新しい食物観を持って、私たち(森下派の自然療養家)の唱(とな)えている腸造血理論というものを、把握(はあく=シッカリとつかむ)してもらいたいと思う。

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