これは、あなたに勧めているわけでは御座いません。世の中には、「こういう考え方があり、それを実践している方が居る」と、云うことです。また、現在ではいろいろな研究により、それぞれの栄養素の効用や弊害(へいがい=副作用)についての情報が公開されております。
実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
下記に関連書籍(青文字クリックで全文が通読できます)を、無断転載させていただきましたので、よろしければ御参考までに、お読みください。
(故マックス・ゲルソン 著)
ゲ ル ソ ン 療 法 治 癒 し た 5 0 人
(故マックス・ゲルソン 著)
(マックス・ゲルソン博士の3女が記した本)
(ゲルソン博士による、ゲルソン療法により完治した患者へのインタ ヴュー)
(5生存率0%の大腸ガンから肝臓へと転移した医師、星野仁彦:著)
(日本人だけなぜ、がんで命を落とす人が増え続けるのか―消化器外科の 権威がすすめる驚異の栄養・代謝療法)
(済陽高穂 著)
(日本におけるゲルソン療法実践医師による対談・比較集)
(お茶の水クリニックで食事指導を続ける医師が書いた本)
P.4 病理が慢性病をつくる
周知のように文明社会人の大半が悩まされている「慢性病・成人病・生活習慣病」は、呼称は違っても原因は1つだ。
加齢的減衰(かれいてきげんすい=年齢を重ねることで弱くなること)や精神的ストレス・公害物質(煤煙:ばいえん・排ガス・農薬・食品添加物などなど)、それに誤(あや=まちがった)れる栄養学による食物選択の間違(まちが)いなどによってもたらされた「自然治癒力の必然的脆弱化(ひつぜんてきぜいじゃくか=弱くなってあたりまえ)」に由来する。したがって、クリミア戦陣医療はまったく通用しない領域なのだ。
だが(1998年における)現実は、ほぼ同様な発想を持って対応しようとしている。あたかも砲弾の破片を除去するが如く腫瘍やガンを摘出し。傷口の消毒薬よりさらに強力な殺菌剤の投与によって体内病原体の駆逐(くちく)を図(はか)れば、それで「病気は癒(いや)される」とでも考えられているかのようである。
自然治癒力が凋落(ちょうらく=力が落ちている)している慢性病患者にとって、そのような加療は「無謀(むぼう=結果に対する深い考えのないこと)」と言ってよい。
文明諸国の医療事情は(1998年現代では)どこも大同小異だから、ほとんどの慢性病患者は癒されない。病人の数は増加する一方で、国家予算の医療費もまた激増の一途をたどることになる。
(1998年の)現代文明病における慢性病対策には、私(森下敬一)のほぼ40年前からの「食→血→体細胞」の原理をよく理解し、何よりもまず「食生活改善によって病気は快癒しうる」との認識を新(あら)たにすべきである。ここからすべては始まる。
P.5 国会『ガン』証言と米上院『マクガバン・レポート』
昭和41年(1966年)4月7日、私(森下敬一)は衆議院科学技術振興対策特別委員会の『対ガン問題』学術参考人として召喚(しょうかん=よばれ)され、幸運にも私見を陳述する機会を得た。その私(森下)の見解は本文中に収録されている通りだ。
要するに私(森下)が言わんとするところは、
① 確実なガン多作樹立のため、まずガン理論の見直しが必要である。ウイルヒョウ的細胞観に毒されている(1998年)現状においては、原点に戻り、「細胞は何か」「細胞の正体が正しく理解されているのか」が改(あらた)めて問い直されなければならない。その上で、私ども(森下敬一派自然療法家)の提唱する新血液理論の当否を、国家的水準で再検討していただければ、間違いなく得策となるだろう。
細胞生物学(さいぼうせいぶつがく、英語:cell biology)とは、細胞を研究対象とする 生物学の一分野。全ての生物は細胞からできており、細胞生物学は生物学の基礎と なっている。 古典的には細胞学と呼ばれ、主に細胞内の構造を記載する学問だった。 近年は ...
ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー(Rudolf Ludwig Karl Virchow, 1821年10 月13日、ポンメルンのシフェルバイン(Schivelbein)(現:ポーランド領シフィドビン( Świdwin))- 19...
② 次にガン対策の要請は、「正しい食生活」である。日本の伝統的食養生法である『玄米・菜食』中心の食生活改善を根幹(こんかん=物事の大もと。ねもと。中心となるもの)として、具体策を考えられるべし、との趣旨(しゅし=事を行うにあたっての、もとにある考えや主なねらい)を述べた。
この極(きわ)めて重要な意味を持つ国会証言に対して、3大新聞はいずれも沈黙を守り、日の目を見ることはなかった。不思議(ふしぎ)な話である。