これは、あなたに勧めているわけでは御座いません。世の中には、「こういう考え方があり、それを実践している方が居る」と、云うことです。また、現在ではいろいろな研究により、それぞれの栄養素の効用や弊害(へいがい=副作用)についての情報が公開されております。
実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
実践されます方は、くれぐれも御確認の上、自己責任・自己管理の下(もと)で行って下さい。
下記に関連書籍(青文字クリックで全文が通読できます)を、無断転載させていただきましたので、よろしければ御参考までに、お読みください。
(故マックス・ゲルソン 著)
ゲ ル ソ ン 療 法 治 癒 し た 5 0 人
(故マックス・ゲルソン 著)
(マックス・ゲルソン博士の3女が記した本)
(ゲルソン博士による、ゲルソン療法により完治した患者へのインタ ヴュー)
(5生存率0%の大腸ガンから肝臓へと転移した医師、星野仁彦:著)
(日本人だけなぜ、がんで命を落とす人が増え続けるのか―消化器外科の 権威がすすめる驚異の栄養・代謝療法)
(済陽高穂 著)
(済陽高穂 著)
(済陽高穂 著)
(日本におけるゲルソン療法実践医師による対談・比較集)
(2冊とも星野先生が実践された中野良一医師の著作)
P.211 ゲルソン療法の普及と責任
星野式ゲルソン療法を初めて他の人に指導していた私(星野仁彦)に、今村氏から嬉しい電話がかかって来た。
「医聖会の仕事を手伝ってくれませんか」
医聖会とはゲルソン療法を日本に紹介し得いる民間団体である。千葉県鴨川市を拠点にして無農薬・有機農法による野菜や穀類を生産し、全国に販売している。また、定期的にゲルソン療法の専門家を招き、食事療法の講習会も実施している。
ゲルソン療法の普及に努める医聖会は、医聖・ヒポクラテスの「汝の食物を医薬とせよ」 の教えのもと、健全な農作物と無添加の安全なオーガニック食品、栄養が破壊されない ジューサーをお届けします。
「時期尚早(じきしょうそう=まだはやい)という意見もありますが、僕は、あなた(星野)のゲルソン療法を認めています」
その言葉を聴いた時、最初は何を言っているのか、よく理解できなかった。
「私(星野)のゲルソン療法ですか?」
「そう、星野式ゲルソン療法です」
私(星野)は不思議な感覚になっていた。たしかに私(星野)はゲルソン療法を私流にアレンジした。しかし、それは精神科医という特殊な仕事をしながらできる方法を模索(もさく=さがした)したまでのことだった。星野式などと名前を付けてはいるが、自信満々の完成度だとは思ってもいなかったし、第一、私(星野)はまだ5年生存率0%をクリアしていなかったのだ。
「そんなものじゃありませんよ」
「何を言っているんですか。あなたなりに工夫(くふう)して作り上げたゲルソン療法は、たしかな効果を出しています。ぜひ、その星野式ゲルソン療法を講習会で発表して欲しいのです」
初めて今村氏に電話をした時の私(星野)は、ガンが肝臓に転移して藁(わら)にも縋(すが)る思いで受話器を握った。今村氏の状況などおかまいなしに相談を持ちかけた。突き放されたが、今村氏の”心中するつもりで”と云う言葉に背中を押されてゲルソン療法の実行を決断した。それからは疑問が生じるたびに、今村氏に相談した。今村氏からすると、できの悪い生徒だったかもしれない。そんな私(星野)が今村氏から講演を依頼されたのだ。
私(星野)の嬉しそうな表情を見て、妻が微笑(ほほえ)んでいた。
「何が、そんなに嬉しいんですか?」
「やっと今村先生に恩返しができるんだよ。これほど嬉しいことがあるかい?」
今村氏の本に出会うことが無かったら、私(星野)が4年間も生き続けることはなかっただろう。『命の恩人』と云ってもいい存在である。その人から私(星野)のゲルソン療法が評価され、さらに役に立つ機会を与えられた。この事実が嬉しくてたまらなかった。
医聖会での講習会を担当するようになって、私(星野仁彦)にはガンに関する講演依頼が殺到することになった。この状況を妻は、かなり心配していた。
「大丈夫ですか?」
「体調は問題ないよ」
「でも…」
それ以上、妻は言葉にしなかった。しかし、私(星野)は解っていた。妻が心配していたのは、多忙になることで体調が難しくなるという物理的な面だけではない。闘病体験を話すことで、私(星野)の中に生まれる1つの責任が心配で仕方がなかったのである。
体験談を語るとは、星野式ゲルソン療法の効果をアピールすることである。実行にうつすかどうかは私(星野)の講演を聴いた人の主体的な判断だが、やはりノウハウの紹介者として、私(星野)にもそれなりの責任が生じるに違いない。
私(星野)の責任―つまり、治療法を公開した以上は、ガンを再発させて死ぬことが出来ないということである。しかし当時の私(星野)は、転移から4年しか経過していなかった。私(星野)の5年生存率は0%のまま、である。体調が急変して死ぬ可能性がない、とは言い切れない。そうなってしまったら、私(星野)は聴講者を騙(だま)したことになる。「インチキだ」と云われても仕方がない。
妻は、その責任が私(星野)に大きなストレスを与えるモノではないかと危惧(きぐ=おそれ)していたのである。しかし、講演に出かけるたびに出会う聴講者の姿を通して、私(星野)は、そんな責任以上の遣り甲斐(やりがい)を感じていた。
公演を聴きに来る人は、私(星野)と同じように5年生存率0%の人、「余命半年」と宣告された人など、ほとんどが生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)にいる。彼らが、私(星野)の言葉を一言も聞き漏らすまいと必死に耳を傾けている。その姿は壇上の私(星野)を鼓舞してくれたし、私(星野)の闘病体験が誰かの役に立つことを実感させてくれた。
講演会をキッカケに、私(星野)はゲルソン療法の普及に力を注ぎ始めた。そして私(星野)が伝えなければならないメッセージを、ハッキリと自覚するようになった。
「人の寿命は(2005年現在における)最新医学の治療実績が統計的にどうであろうと、誰にも予測することはできない」